ホツマ君の自己紹介

吾輩は、古代史探偵ホツマ君である。
吾輩が生まれたのは、東京の真ん中近く、港区三田4丁目。
江戸時代、このあたりは寺町であった。
吾輩は、子供の頃、亀塚公園で良く遊んでいた。
この地を徳川家康は月の岬と名付けたらしい。

亀塚公園にある亀塚は、古墳ではないかと言われる築山。ここは江戸時代は上野沼田藩の下屋敷であった。明治期は華頂宮家の屋敷となっていた。聖坂に面した道路沿いには華頂宮邸時代の塀が残り、お屋敷町だった頃の雰囲気をわずかに漂わせている。亀塚からは、数十年前までは東京湾や房総半島を遠望することができた。また江戸期、この周辺は海から昇る月が美しい月の名所で、徳川家康が「月の岬」と名付けたともいわれる。

この公園の裏は崖地で、その下には、御田八幡神社が控えている。

主祭神:誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)
相殿神:天児屋根命(あめのこやねのみこと)
武内宿禰命(たけしうちすくねのみこと)

和銅2年(709)、牟佐志国牧岡(むさしのくにまきおか)というところに、
東国鎮護の神様として鎮祀され、延喜式内稗田神社と伝えられた。
その後、寛弘8年(1011)武蔵野国御田郷久保三田(みたごうくぼみた)の地に遷座され、嵯峨源氏渡辺一党の氏神として尊崇された。俗に「綱八幡」という。江戸開幕の頃、僧快尊が元和5年(1619)現社地を卜して造営を開始し、寛永五年(1628)8月に遷座した。別当は八幡山宝蔵寺と称し天台宗に属する。
平成21年は、神様をお祀り申し上げてより1300年の佳節を迎えた。

吾輩が子供の頃は、この神社の崖をよく上り下りして遊んだものだ。
神社の裏には、井戸のような池のようなものがあり、そこには沢ガニやアメリカザリガニがいた。
このザリガニを、イカの足を糸で結んで釣り上げるのが子供の頃の遊びの一つでもあった。
亀塚公園の近くには、洋館の富山県事務所があったが今はない。面影のある洋館だった。
この前の道を、荷台をつけた馬が通るのを見たことがある。昭和27年頃だろう。
吾輩が4歳になると、高輪にある高野山の別院、高野山幼稚園に入れられた。
ただそこは自宅から遠かったことから、すぐに枝光会幼稚園に転園させられた。
キリスト教の幼稚園であった。きれいな先生がいたので、幼心がときめいたものだ。
小学校は、区立高輪台小学校。中学は区立高松中学佼。
高松中学は、もともと高松宮がお住まいになっていた所であった。校庭には大きな池があったが、埋め立てられた。この近くに光輪閣がある。ここも高松宮のお住まい。

高松宮邸は始め、東京市麹町区三年町(現在の東京都千代田区永田町、内閣府庁舎付近)にあった有栖川宮邸を引き継いだが、昭和に入って同建物が外務大臣官邸に転用されることに伴い、港区高輪一丁目にあった高輪御殿に移転した。同地は江戸時代、大石良雄らの切腹地として知られる肥後細川家の下屋敷跡であった。大正時代には皇太子であった昭和天皇が一時期東宮御所としていたこともある。戦後、広大な敷地は宣仁親王の意によって縮小され、払い下げられた場所には港区立高松中学校や都営高輪アパートなどが建てられた。また、残った敷地内にあった本館も、「光輪閣」として改装のうえ一般開放された。光輪閣はかつて宣仁親王の国際関係特別秘書官であった川添浩史を支配人に迎え、結婚式場などとして貸し出された。またかつては夏になると、宮邸の庭にあったプールも近隣の子供たちに開放されていた。

吾輩は子どもの頃から古代の話や宇宙の話が大好きであった。これらに心を躍らせていた。
そのころにあったテレビドラマが「少年ジェット」である。

  1959年3月4日から1960年9月28日まで大映テレビ室製作でフジテレビ系にて放映された

少年ジェットに刺激され、吾輩は空に向かって「ウーヤーター」と声をあげ、天空を動かそうと試みたものだ。この時は、うまく行かなかったが・・・。
吾輩が中学に入った時、父親のすすめで中村天風の夏季道場に行くことになった。
道場のある護国寺まで都電で通った。当時は都電が護国寺まで走っていたのだ。
ここで吾輩は、宇宙の声を聴くことを教わった。
それは安定打座(あんじょうだざ)という瞑想法で行うものであった。
これによって吾輩は、テレパシーなどは当たり前のことであることを知った。
天風先生のお陰で、ずいぶん良い思いをした。
学校の試験では、その日の朝に覚えたことがそのまま出題されたりした。
吾輩が、大学4年の時父親はあの世に旅立った。
父親は、官僚であったことから、家にはたいした財産はなかったが、借地だけが残されていた。吾輩はそこにアパートを建てることにした。
母親と3人の弟の生活と学資の資金を得るためであった。
アパートは慶応大学の近くであったこともあり、すぐに学生で埋まった。
近所の工務店の社長が、頭金なしで、アパートを建ててくれたのだ。
今から考えると、人情味のある良き時代であった。